インタビュー

『長江哀歌』ジャ・ジャンクー監督 インタビュー

2600年の歴史を持つ三渓の街をたった2年間で取り壊してしまう破壊のスピードの速さが、あまりにも理不尽ではないかと思いました

 ジャ・ジャンクー監督の最新作『長江哀歌』が公開される。中国の一大国家プロジェクト・三渓ダム建設による水没を控え殺伐とした古都フォンジェを舞台に、連絡の途絶えた配偶者を捜す男女の姿を通して現代中国の抱える問題点を浮き彫りにし、昨年のベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した秀作だ。来日した監督が、本作を製作した経緯や受賞の心境、長年製作を支援してきた日本への謝意などを語った。

ジャ・ジャンクー監督

 1970年中国山西省生まれ。
 省都・太原の芸術大学で油絵を専攻するが、チェン・カイコーの『黄色い大地』に触発され、93年に北京電影学院に入学。
 1998年に長編第1作『一瞬の夢』が釜山国際映画祭、バンクーバー国際映画祭、ナント三大陸映画祭でグランプリを受賞。
 『プラットホーム』(2000)、『青の稲妻』(02)、『世界』(04)と続いた作品は、いずれも世界各国の映画祭で絶賛され多くの賞を受賞するが、その作品は近年まで中国国内での上映が禁止されていた。日本のオフィス北野が一貫して製作をサポートしてきたことでも知られている。

まず、ご挨拶をお願いします。

 この作品は、2005年に撮影を開始しました。映画の舞台となった三渓は、自分にとってはもともと身近な場所ではありません。普段僕が過ごしているのは北部の方なので、そこから2000キロも離れた街です。でも、実際に2600年の歴史を持つ三渓の街をたった2年間で取り壊してしまう、しかも100万人の人が立ち退かされるという状況を目の当たりにしたときに、この場所には中国社会の変化と現状が集約されているような印象を得ました。このような状況を目の前に見てとても興奮しましたし、そのことがこの映画を撮るきっかけのひとつになったことは間違いありません。また、地元の人たちの非常にアグレッシブでエネルギッシュに生きる姿にも興奮しました。だからといって、私がこの映画で一番撮りたかったのは、社会的な出来事がどのように個人に影響を及ぼすかといったことではありません。むしろ、個人の自我の問題、いろいろな現実の中におかれた個人が現実にどう向き合っていくか、そういうときにはどのような行動をしてどのような選択をするのか、そこでまた自由を得るのか、そういった主体的な姿です。ですから、この映画の主人公の男女も自分自身の問題と向き合っていきますし、そういった視点でこの作品を観ていただければ、中国での出来事を撮った作品ですが、日本の皆さんがご覧になっても共感していただけると思います。

最初に長江の古都、奉節(フォンジュ)を訪れたときに、生の眩さを感じたとおっしゃっていますが、現実のエネルギーを映画化するにあたって、映像と音の面で最も大切にしたことは何ですか?

 最初に、フォンジェの街に行ったときに感じた印象深さについてお話したいと思います。
 ひとつは、フォンジェの街に初めて降りたとき、最初に出逢った13~14歳の少年のことです。彼は旅館の客引きで、最初に聞いてきたことが、「住むところはありますか? 旅館を手配しましょうか?」でした。次に「ご飯を食べますか?」と聞いてきたので、「食事をする場所は決まっていますから」と答えると、更に「車は手配しましたか?」と聞いてきました。その時に驚いたのは、たかだか13~14歳の少年が、仕事の術を知っていて客引きをしている状況でした。その後もずっと僕らについてきた彼が、映画の中で歌を歌っている少年です。生活に対する意欲、切実に生きていることを目の当たりにした、最初の印象深い出会いでした。
 もうひとつ、フォンジェに到着したときには既にダムの建設プロジェクトがスタートしていたのであちこちに解体工事の現場がありましたが、強い日差しの下で働く上半身裸の労働者の姿を見たときには人間の肉体美に非常に感動しました。今までの作品ではどちらかというと人間関係を撮ってきましたが、1人の人間を個体として見て、労働する肉体の美しさに感動したのは初めての経験です。そういった気持ちも、この映画を撮らせるエネルギーになったと思います。
 視覚的な話や音の話についてのご質問にお答えします。最初に三渓に行ったときにはイーチャンからフォンジェに船で向かったのですが、その途中で目にした風景はまさに山水画の世界でした。とても静かな中で船は進んでいきましたが、いざフォンジェの街について船を下りると、全く違う世界が広がっていて、非常に人がたくさんいて活気がありました。僕がビジュアル的に覚えていたのは、崖っぷちで料理を作っている人たちの姿です。こんなギリギリの場所で料理を作るのが日常生活である人たちの光景を見たときには、大きな感動と刺激を受けました。音についていえば、ふつう撮影をするときには雑音が気になります。解体工事で建物を壊す音も雑音ですが、都会だったら機械で一気に壊すところでも、フォンジェの街ではいかにも人の手で建物を壊しているような音がしていました。体力と汗の代償としてその音が出ていることがすごくよく判ったので、録音技師にその話をして、解体工事の音を雑音としてではなく、音楽のリズムのように捉えて録音して下さいとお願いしました。もちろん、フォンジェで働いている労働者たちは、自分の生命力やエネルギーを誇示するために工事の音を出しているのではなく、取り壊したものをもう一度リサイクルするために、お金のために、生活のためにその仕事をしているのだと思いますが、僕たちはその中に彼らの持つ原始的な力を感じました。

ジャ・ジャンクー監督の作品にはいつも素敵な映像が出て来ますが、撮影監督のユー・リクウェイさんとは撮影についてどのような話をしているのですか?

 どの作品も、撮影前にはビジュアル的にどのような新しい試みをやろうか考えます。というのは、それぞれの作品のストーリーが違うように、それぞれの撮影も違う空間で行っていますから、同じように画を撮ることはあり得ないからです。例えば、最初に三峡地域を船で訪れたときに中国の伝統的な絵画のような風景を見たので、撮影でも中国の伝統的な絵画の手法を考えました。中国の歴史は長いので絵画といってもいろいろな手法がありますが、まず山水画のような青や緑に偏った色使いを考えました。山水画のようなイメージでいきましょうという話をしたときに、カメラのフォーカスもかなり甘めにしました。カメラワークについても、長いレールを敷き、巻物を開いていくようなイメージで撮影しました。これらは撮影前にカメラマンのリー・ユウクェイと決めていたことですが、その原則に則って撮影した彼は非常にプロフェッショナルな人物です。

映画に出て来た16年前に流行っていたマンゴー印の煙草とマークが配っていたウサギ印の飴が印象的でしたが、これらは中国の庶民にとってなじみ深いものですか?

 今ご指摘のあった二つに加え、各パートの前に出てくる糖・茶・酒・烟、これらは中国人にとって日常生活に溶け込んだ存在です。その一方、僕らが育ってきた時代には、いつでも誰でもお金で買えるものではなく、国から供給されるものでした。ですから、これらを見るとかつての計画経済時代を思い出します。中国としては前例を見ないほど大規模な国家プロジェクトである三渓ダムからはすぐに計画経済の時代を思い出したので、身近な存在としてその四つを使いました。しかも、今話した四つのものや、飴もお酒も煙草の同じですが、今でも人との付き合いに使われるものです。男性同士だったら、まず「煙草1本いかがですか?」となるだろうし、病気になった人にはお茶やお酒を贈ったり、お祝い事では飴を配ったり、現在の日常生活にも密着しています。具体的に説明すると、マンゴー印の煙草は、かつてある東南アジアの国の要人が中国に来たときに中国の政治家にマンゴーを贈ったのですが、受け取った政治家はそれを労働者にそのまま贈ったことがあります。国家の指導者層の人たちが一般庶民に関心を持っていることの象徴としてそのことが話題になって作られたのがマンゴー印の煙草ですが、発売当時は高級品でした。もうひとつのウサギ印の飴は上海で作られていて、中国の子供たちは皆これを食べて育ちました。今でも作られていて、多くの人たちが食べています。

ワン・ホンウェイさんが演じたワン・トンミンの家の前の廃墟のようなビルが突然ロケットのように飛び立ちますが、このシーンはどうやって撮ったのですか? また、何を意図しているのですか?

 あの建物は、最初にフォンジェの街に来たときから目についていましたが、とても美しい川縁の景色の中に立っている変な建物です。その後、あの建物について地元の人とお話する機会があったのですが、ダム建設に伴う移転政策のメモリアルタワーとして作っていたのが、中程まで工事が進んだ段階でお金が無くなり、放置してあるとのことでした。その光景にはあまりにも非現実的な存在感があり、どうしてもしっくりこなかったので、異星人がどこかから持ってきたとしてもおかしくない、だからどこかに飛んでいけばいいのにと思いました。
 実はあの建物だけではなく、この映画では違和感のあるシーンを幾つか撮っています。例えば、UFOみたいなものが飛んで来たり、突然ビルが崩れたりといったシーンです。なぜそのような唐突なシーンを入れたかのかというと、中国社会の発展があまりにも早いので、発展に伴って理不尽な出来事や理屈では説明できない出来事、あまりにも現実離れした出来事が、頻繁に発生しているからです。2600年の年月を掛けてゆっくり作り上げられたフォンジェの街が、たった2年間で壊され消えてしまうのです。作ってきた時間と比較した破壊のスピードの速さが、あまりにも理不尽ではないかと思いました。ですから、違和感のある画面を入れることによって、現代の中国社会が持っている複雑さや現実離れした雰囲気を出したいと思いました。飛んでいったビルはCGで作りました。

突然ビルが崩れるシーンや綱渡りのシーンもCGですか?

 突然ビルが崩れるシーンは、まずビルが壊れるシーンを撮り、後から人間を合成しました。綱渡りは北京で撮影した映像を合成しました。中国ではこのようなコンピュータを使った合成は非常に高等な技術だと思われていますが、僕たちは初歩的な手法しか使っていません。最初に見た綱渡りは、僕の田舎の北方の街で見せ物として川を渡っていたときですが、今回の撮影で長江を見たときにそのことを思い出し、あのシーンを考えました。

北京ではビルとビルの間を綱渡りする人がいるのですか?

 北京の郊外には、そういう人が多いです。それで思い出しましたが、冒頭で客引きに騙して連れ込まれるインチキのマジック・ショーが出て来ましたが、あれも自分が経験したことです。マジックには、良いものも悪いものも出てくる奇妙さを感じます。

先ほどのお話の出た客引きの少年が歌うシーンが何ヵ所か出て来ますが、本作にどのような効果をもたらしていますか?

 彼の歌は、情緒的な部分を表現しています。つまり、映画の中では登場人物が誰かを訪ねたり移動していることが多いですが、その中で情緒的な部分として彼に歌ってもらいました。例えば、中国の伝統的な芝居の中で、切々となる気持ちだけを歌うのと同じような役目を担っています。しかも、彼が歌っていた曲はインターネットで流行った曲で、高邁な曲ではなく日常生活から流れてきた歌です。非常に生活に近く、僕が描こうとしていた世界と歌の世界がマッチしていたのでこの曲を使いました。

登場した地元の人たちは、出来上がった映画を見てどのように思ったのですか?

 フォンジェは田舎町なので、一番近い大都市である重慶で、お世話になった地元の皆さんと出演者をお招きして上映したことがあります。そのときには、中国の記者が地元の人はどのような印象を持ったのか関心を持ちインタビューをしていました。その中には、サンミンの奥さん役のヤオメイさんがいました。彼女は役者さんではないので、何て答えたらいいのか考えていましたが、いきなり非常にストレートに、「私たちの生活は辛い」と言っていたのを覚えています。チョウ・ユンファが好きなマーク役の男の子は、映画に出るのならピストルを撃ちたかったと非常に残念がっていました。歌を歌っていた男の子は、映画に出るのなら自分の好きなかっこいいサングラスを掛ければ良かったと言っていました。彼ららしい反応です。また、上海から近いソンミンダオという島に移住された方がかなりいるのですが、そこには住み着かずまた他の地域に出稼ぎに出た人たちがいます。既に三渓という故郷を失ってしまった人たちが、移住させられた土地に馴染むことが出来なかった。拠り所のない人たちがたくさん出たわけですが、これもひとつのドラマだなと思って、彼らの体験談を聞いたことがあります。

脚本を作るときに、登場人物のキャラクターをどのように考えますか?

 例えば、シェン・ホン役のチャオ・タオさんは頻繁にペットボトルの水を飲んでいます。とても暑い土地なので水を飲まないといられないという理由もありますが、2年間夫が帰ってこないので結婚生活が破綻している女性の内面的な枯渇感を、彼女のそういった行動を借りて彼女の置かれている状況とだぶらせました。チャオ・タオさんのペットボトルと同じような意味を持たせたのが、一度、冗談でそれは何でも出てくるマジック・バッグだと言いましたが、ハン・サンミンさんがいつも持っている鞄です。僕がサンミン役に求めたキャラクター設定ですが、見た目は少し控えめな男性ですが、自分ならではの知恵を持っていて、何かあったときには即決できる決断力を持っている。例えば、昔の妻と再会し、もう一度やり直せないか交渉する。そういった様々な状況で決断できる人間にしたかったのです。また、旅館のおじいちゃんのかぶっていた帽子は、1944年以前に中国の男性がよくかぶっていた昔ながらの帽子です。彼がそれをかぶっているということによって彼の年齢が判りますし、物も人もたくさん行き交った船着き場ですから、おそらくいろいろなものを経験し見てきたと思います。そういう旅館の主に設定すれば、彼の中に時間の流れを託すことが出来ると思いました。

ジャ・ジャンクー監督の作品としては珍しく中年の男女が主役となっていますが、この二人に今の中国の現実を象徴させているのですか?

 1997年に第1作を撮影して以来、常にその時その時の中国の姿を撮ってきました。今回は三渓を舞台とした映画を撮りましたが、多くの不合理で理屈の通らない出来事が中国社会で起きている現実を見ている内に、それらは現代の中国社会が近代化の過程で以前から存在した様々な問題を解決せず、放置してきた結果ではないかと思いました。同様に、今回の映画の主人公が中年である理由は、彼らの年代は若い人たちと違って既に過去を持ち、経験があり、何らかのストーリーを自分の人生に抱えているからです。しかも、ハン・サンミンは16年間会っていない自分の子供と妻に会うために来る、シェン・ホンは2年間戻ってこない夫を探しに来る。二人とも問題解決のためにフォンジェの街にやってきますが、その原因は過去にあり、今になって解決しようとしています。今発生している問題の原因は必ず過去にあることを踏まえて考えると、今回の主人公は若い人ではなく、このぐらいの年齢の人が良いということになりました。
 この作品は2005年の8月に撮りましたが、その時には三渓ダムの工事は既に後期にさしかかり、ほぼ完成していました。実際にダムが完成しているという現実は、人間でいうと若くない人たちに相当し、人生のスタート地点にいる人たちではありません。白紙の状態でスタートできる二人ではなく、今まで経験したいろいろな出来事の痕跡を携えてフォンジェの街にやって来た二人です。そういう意味でも、撮影当時の三渓の状況と登場人物は重なっています。

遅いエントリー、サプライズ上映にもかかわらず、カトリーヌ・ドヌーヴ審査委員長の絶賛などによりヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞されましたが、その感想は?

 去年、ヴェネチアに行く前に、日本で開かれた溝口健二監督のシンポジウムに呼んでいただきましたが、そのときに今まで僕の作品をプロデュースしていただいた市山尚三さんと「どうしようかな?」「間に合うのなら出せば?」と話したことを覚えています。結局、日本から帰国し、大急ぎでベネチアへの出展に向けて作業をしましたが、その段階では僕も映画祭側もエントリーに間に合うのか全く判りませんでした。もうひとつは、去年の春に父を亡くして撮影が中断してしまい、精神的にもショックを受けました。そんな時期に急いで作った作品ですが、何とかエントリーに間に合いました。ただし、そのときにはクタクタだったので、受賞のことなど全く考えていませんでしたが、思いがけず金獅子賞を頂き、一般の中国の人を撮った作品をこうやって評価していただいたことが非常に心の中に残りました。そして、非常に困難だった時期にもずっと映画製作を支持して下さったオフィス北野の皆さんに本当に感謝しました。
 1997年に映画を撮り出してから2003年までの間、中国ではブラックリストに載っている上映禁止の監督でしたが、そのような状況下で『プラットホーム』や『青の稲妻』が撮れたのも、オフィス北野の皆さんの支持があったからです。なかなかチャンスが無くてお礼の気持ちを伝えることが出来ませんでしたが、大事な賞を頂いたときに、その場を借りてオフィス北野さんに感謝の気持ちを述べました。受賞直後にプロデュースしていただいた市山さんに電話をすると、日本は夜中にもかかわらずインターネットで見て僕の受賞を知っていました。「この賞が取れたのも、今まで一緒にやってきてくれたおかげですから、一緒に賞をもらったのも同然です」と話したことを覚えています。その言葉は決して体裁ではなく、この10年間近くの撮影を通じて心から感じていたことなのです。

 人口が多く様々な格差が大きい中国だけに、方向転換をしようとすれば、その摩擦も日本の比ではないだろう。ジャ・ジャンクー監督が本作で描いた三渓ダムの建設はまさにその好例。それでも生きていこうとする本作に登場するハン・サンミンやシェン・ホンを始めとする中国の人たちは力強い。軟弱な日本人が失ってしまったエネルギーがスクリーンから伝わってくる。

(取材・文・写真:Kei Hirai)

公開表記

 配給:ビターズエンド、オフィス北野
 2007年8月18日よりシャンテシネほか全国ロードショー

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