インタビュー

『パリ、恋人たちの2日間』ジュリー・デルピー インタビュー

心の底では一人の人を一生愛し続けるのが可能であることを期待しているわ。でも、半分は疑っている

 国際的に活躍するフランス人女優ジュリー・デルピーが、監督・脚本・製作・編集・音楽・主演を務めるチャーミングでビターなラブ・ストーリー『パリ、恋人たちの2日間』。パリの空気を存分に感じさせてくれる本作のPRのため、最新作の撮影の合間を縫って来日したジュリー。インタビューでは、自らの恋愛観も率直に語ってくれた。

ジュリー・デルピー

 1969年12月21日、パリ生まれ。素晴らしい才能と、この世のものとは思えない美貌を兼ね備えていることで知られるジュリー・デルピーは、真のアーティストとしてその言葉どおりの存在である。フランス語、英語、イタリア語を操り、女優として、歌手として、脚本家として、ヨーロッパやアメリカでその名は有名だ。
 14歳から世界的な巨匠たちと仕事をしているジュリー。ジャン=リュック・ゴダール監督『ゴダールの探偵』(85)、レオス・カラックス監督『汚れた血』(86)、クシシュトフ・キエシロフスキー監督『トリコロール/白の愛』(94)、ロジャー・エイヴァリー監督『キリング・ゾーイ』(93)など、名だたる監督たちとの華麗なフィルムグラフィーは、後に花開く監督業に大いに発揮されることになる。他にも、
 ジュリーが演技に魅力を感じ始めた理由のひとつには、舞台俳優である両親の影響も大きい。そしてその演技に対する愛情は、監督業への意欲に昇華される。ゴダールと働いたことでインスピレーションを受けたジュリーは、92年から93年にかけてニューヨーク大学の映画・脚本科で学び、主席で卒業。94年には短編『Blah Blah Blah』を監督し、サンダンス映画祭とテルライド映画祭に出品している。
 近年では、主演でもある『ビフォア・サンセット』(04)で、イーサン・ホークやリチャード・リンクレイターと共にアカデミー賞®脚色賞にノミネートもされた実績を持つ。自身の監督最新作『The Countess』(08)では、ウィリアム・ハート、ヴィンセント・ギャロ、ダニエル・ブリュールらと共演している。
 監督業のほか、ジュリーは才能あふれるシンガーソングライターでもある。2000年には、自身の名前がアルバム名の「ジュリー・デルピー」をリリース、繊細かつしっとりとしたアルバムに仕上げた。その中で3曲を『ビフォア・サンセット』に提供している。本作でも音楽を担当している。

フランス人の描き方がとてもリアルでしたが、ご自身としてもリアル感を目指されたのか、それとも幾ばくかのデフォルメがあったり、風刺的な意味合いも込められているのでしょうか?

 何よりまず、コメディを撮りたいと思ったの。次に、私が興味のあったテーマは恋愛だったので、随分以前からそれについてシナリオを書いていたということもあった。『恋人までの距離(ディスタンス)』『ビフォア・サンセット』を経て、今作に至ったのだけど、恋愛関係、特に恋愛の難しさについて屈折したユーモアで描きたいと思ったの。
 (ポスターを見て)……このポスターのアダム、すごくカッコいいわね。実際の彼はこんなに美男じゃないわ(笑)。ごめんなさい、つい気になって(笑)。
 とにかく、そう、この映画はコメディだけど、シリアスでもある。だって、48時間のあいだにうまくいかなくなってゆく恋人たちを描いているんだから。自分も含め、おそらくカップルなら誰もがこうした困難を経験しているんじゃないかしら。とても辛いことよね。でも、私はその物語をコメディ仕立てにしたの。

おもしろおかしいコメディを撮りたかったとおっしゃいましたが、シリアスな社会問題も盛り込まれていました。

 そうね、シニカルな要素をコメディの中に取り入れることが、私には大切だった。私自身、シニカルな人間だから。政治的な部分に関しては、ロマンティック・コメディのコードを壊したいという思いがあったの。ロマコメでは普通、政治的な発言は省かれるし、エッヂの効いた台詞はダメだし、激しい議論などもないものよね。でも、私はあえてそういうシーンを入れることで、ラブコメのコードを壊したいと考えたの。実際の生活の中で政治的なテーマで議論をするのは私にとって必要不可欠なので、この作品の中でもそうしたエネルギーを放出させることが大切だった。ユニークなロマコメになると思ったわ。

監督から主演、音楽までこなされていますが、全てをやり尽くした原動力となったのは? ジャン=リュック・ゴダール監督の影響もありますか? 登場している猫の名前がジャン=リュックでしたが。

 今回はあらゆることをやったけど、そのエネルギーの元になったのは、映画を作りたいという想いが自分の中にずっとあったということね。その想いは本当に強くて、自分の中でいつも格闘している感じだった。それに限らず、私はかなりエネルギッシュな人間だと思うわ。創造のためのエネルギーというのは、自分の不確かさや脆さが、逆に強さへと転嫁されたものだと感じているの。ある種の苦しみも同様ね。人生ってそういうものじゃない? 私は闘う人間だけど、ひどく苦しんだりもする。でもその苦しみが私を創造的にしてくれていると思うわ。もちろん、苦しみといってもそれは、戦争の最中にあって苦しんでいるようなものとは違うわよ。したいと思うことがずっと実現できないでいる苦しみなの。長いこと女優をやってきたけど、心のうちでは大きな困難を感じていたり、たくさんのことを諦めたり、さまざまな痛みを抱えてきたわ。
 ジャン=リュックという猫の名前は確かに、ゴダール監督に対するちょっとした目配せではあるわね。マリオンとジャックは出会ったときにゴダールの映画を一緒に観に行って、その後に猫を飼い始めて、ジャン=リュックという名前をつけた……というイメージかな。でも、猫にジャン=リュックという名前をつけるのはバカみたいだわ。たとえ、ゴダールが好きでもね。ちょっとブルジョワ・ボエム(註:略はBOBO。ボヘミアン趣味を気取るスノッブなブルジョワのこと)っぽい。そういうのが流行っているけど。私もゴダールは大好きだけど、猫にジャン=リュックなんて名前をつけたいとは思わないわ。ちょっとバカげてる(笑)。このジャン=リュックって猫は私のじゃない。大体、ジャン=リュックなんて名前の猫は存在してないわ。こういうのって、バカげていて面白いと思ったの。

キャスティングが絶妙でした。特に、ご両親とアダム・ゴールドバーグさんは脚本段階から想定されていたのですか?

 両親については、アテ書きをしたわ。この映画はほとんど予算がなかったし、父母は長年舞台で仕事をしてきたとても素晴らしい役者で、純粋に俳優として敬意を抱いてきたので、二人に見合った役を映画の中で作りたいと思ったの。両親が私の映画に出るのは二人にとっても喜びになるのではないかとも思ったし、実際とても楽しんでくれたわ。私自身もすごく楽しかった。
 アダム・ゴールドバーグについては、どうしてもこの役を演じてもらいたかった。アダムはとてもおかしいコメディアンだし、彼にピッタリの役だと思ったから。彼には悲しげなピエロ的雰囲気があるわね。彼が泣くと、観ている人は笑えるという感じ。こういう資質を持っている俳優を起用することが私には大切だったの。それにちょっと、ノイローゼ気味のニューヨークのユダヤ人というイメージもある。このコンビネーションが気に入ったの。ウディ・アレンに似ているという言う人もいるけど、ウディよりはハンサムだわ(笑)。実際、彼って可愛いと思わない? ヒップなところと神経症的な部分が組み合わさった感じが好きなの。アダムはホント、可愛いわよ(笑)。筋肉質だしタトゥーもいれているし、アダムは自分の体をさらすのが大好きなの(笑)。その件では一度も口論にはならなかったわ。喜んでシャツを脱いでくれた(笑)。自分のことが好きなのよ。俳優ってそういうものだわ。自分の肉体を見せるのが大好きなの。お尻だって喜んで見せてくれる(笑)。それは私自身、前作で経験したことなの。男優たちはまるで娼婦みたいだった。脱ぐのが大好きで、露出狂だと思ったわ(笑)。

エンド・ロールに使用されている可愛いイラストは、ジュリーさんが描かれたのですか?

 どの絵のこと? 男の人の絵? そうよ、私が描いたの。(手元のノートに描いてみせて)こういうの? “69”よ(笑)。ごめんなさい! でも、キュートでしょ? 卑猥に見えないと思うけど。子供たちのため(笑)。シナリオが出来たときにはもっと真面目な絵も描いたけど、最初はこんな感じだった。私ってイヤらしい女なの。どうしようもないわ(笑)! 父からの遺伝なの。私が悪いわけじゃない(笑)。父はいつもこんなふうなの。血のなせるわざよ(笑)。

ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストタンゴ・イン・パリ』の真似をして写真を撮るというシーンが出てきましたが、このシーンを入れ込んだ意味は?

 『ラストタンゴ・イン・パリ』は、愛やセックスについてシリアスに問いかけている映画だわ。それに対して私の映画では、カップルは結局セックスをしないし、性生活は散々たるものね(笑)。情熱はあるにせよ、『ラストタンゴ・イン・パリ』に描かれているような情熱はもう持てない二人の話、つまり全く真逆の話なの。だから、正反対の『ラストタンゴ・イン・パリ』を引用することで、情熱の喪失に対するひとつの目配せになると思った。二人も情熱がないわけじゃないのよ。ただ、その情熱は神経症的で、『ラストタンゴ・イン・パリ』のようには決して熱くなれない。それに、マーロン・ブランドに全然似ていないアダムがああいうことをするのは、すごくバカげた感じがあるわよね。

冒頭と最後のほうに「ダ・ヴィンチ・コード」ツアーのアメリカ人団体客が登場しますが、あれは普段からパリなどで見かけているからですか?

 そう。「ダ・ヴィンチ・コード」が流行った頃、アメリカに限らず世界中からツアー客がパリに殺到してきたわ。「ダ・ヴィンチ・コード」の中で書かれていることって、デタラメが多いのよ。それなのに、大勢の外国人たちがあの本に登場する場所を巡るためにパリにやって来て、これはパリジャンにとってイライラの原因のひとつになっているの。例えば、サン・シュルピス教会に行って石に傷をつけたり、少し削り取ったりということが起きたから。だから、そうした愚かなツアー客をちょっと笑いたいと思って、この映画の中に登場させたの。彼らも本当だったらあちこちを巡るはずだったのに、重いスーツケースを引きずりながら、図らずもパリ郊外を一回りしてしまうという……(笑)。ちょっと意地悪だけど、ものすごくおかしいと思ったわ。

育ったカルチャーの違いもありますし、男女というのは根本的に異なった存在だと思いますが、そうした違いを乗り越えて男女が平和的に過ごすには何が必要だと思いますか?

 ……分からないわ(笑)。大体、人は長く一緒にいて幸せでいられるのか、うまく関係を続けていけるのか、私には確信が持てない。私は人生というのは長い苦しみの連続だと思っていて、恋愛で本当に幸せを得られるのか分からないの。自分が本当に幸せを感じられるのは仕事の中だけだという気がする。恋愛関係で幸せになるのは、本当に難しいことだわ。人が深い意味でコミュニケーションを取るのは不可能だとさえ思っている。私ってあまり楽観的な人間ではないの。人を全く信じられなければ一生独りでいるんでしょうけど、少し信じている部分もあるから、結局失望を繰り返してしまうのね。もちろん、心の底では一人の人を一生愛し続けるのが可能であることを期待しているわ。でも、半分は疑っている。悲しいことに、人の肉体はそれぞれ密度や重さが違う。それは宇宙と同じなの。だから、人対人というのは本来、水と油だと思っている。真に中和して混ざり合うことはないんじゃないかしら。だから、ずっと一緒にいて幸せでいられるとは思えないの。体を重ね合わせたときには混ざり合っているような気になるかもしれないけど、でも実は、そのときお互いの体に損傷も与えていると思うの。だから、私は愛に真の希望を見出すことが出来ないのよ。

 『The Countess』の撮影の合間に来日したということもあって、とても疲れた様子だったジュリー。でも、それほど慌しい中でも取材に応じるほど、これは彼女にとって大切な映画なのだ。フランス的なユーモアとエスプリに富んでいるだけでなく、パリの空気とそこで暮らす人々が生き生きと映されていて、彼女の監督・脚本家としての才能のみならず、強さも弱さも抱え、人生と恋愛を愉しみつつも混乱し傷つく一人の女性としての想いが伝わってくる。それは、話を聞かせてくれた彼女自身でもあった。ちょっぴりエッチでおかしくて、そして「人生は苦しみの連続だ」と語る女性、それが素顔のジュリー・デルピーだった。

 (取材・文・写真:Maori Matsuura)

公開表記

 配給:アルバトロス・フィルム
 2008年5月24日(土) 恵比寿ガーデンシネマ、新宿ガーデンシネマ他全国順次ロードショー!

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