役者として、いい作品しかやりたくないという気持ちはあります
オダギリ ジョーの海外進出企画第一弾『PLASTIC CITY プラスティック・シティ』。昨年度のヴェネチア国際映画祭ではコンペティション部門に出品され高い評価を得た本作への想いを、オダギリ ジョーがオフィシャル・インタビューで語った。
まず、出演のオファーはどのようなかたちで来たのでしょうか?
以前、ジャ・ジャンクー監督の『世界』が公開された時、(ジャ・ジャンクー)監督と対談したことがあったんです。そこで意気投合する部分があって、最初は彼から話をいただいたんですね。「自分がプロデューサーとして関わる作品があるので、まず脚本だけ読んでもらいたい」と。その後、ジャ・ジャンクー監督と直接会って、シノプシスを渡されたんです。そこでほぼ即決しましたね。今回はプロデューサーでしたが、ジャ・ジャンクー監督とは、一度お仕事をご一緒したいと思っていたので。
ユー・リクウァイ監督を中心に進められた脚本は何度も書き直しを重ねたそうですが、魅かれたのはどのようなところでしたか?
やはりブラジルが舞台ということでしょうね。昨年は日系ブラジル移民100周年だったじゃないですか。ブラジルに対する興味も高まっていたので、とてもおもしろいと思ったんです。ブラジルって、案外知らないことばかりなんですよね。この話をいただいた後、ドキュメンタリーなどを集めて、ブラジルの勉強もしました。すごく楽しみに思っていた作品ですね。
今回の作品は、海外監督と顔を合わせる最初の作品として企画されていました。その点も大きな要素だったのではないですか?
そうですね。実際に撮影を行ったのは『悲夢』(キム・キドク監督作品)の後ですが、企画の段階では海外の監督と海外で撮る1本目の作品という気持ちがあったので、すごくワクワクしていました。
今回のキリンという役柄は、どのようにして組み立てていったのでしょうか?
日系ブラジル人という設定ではありますが、ブラジルで生まれブラジルで育ったブラジル人なので、日本人であることは捨てようと思いました。それで、ブラジル人らしい身のこなしを、まず探すことから始めたんですね。ブラジルに到着してからクランクインするまで、1週間から10日くらいあったんです。その間にいろいろと吸収しようと思いました。一番明確なブラジル人らしさというと、よく親指を立てるんですね。例えば、道路で車が車線変更して入ってくる時も、窓から手を出して、親指を立てながら入ってくる。親指1本でコミュニケーションがスムーズに運ぶんです。そいうところに気持ちよさを感じました。
首筋に入れたタトゥーをはじめ、衣装やヘアメイクに関してはどのようにイメージしたのでしょうか?
脚本を読むかぎり、上り調子のギャングの話だと理解していたので、黒いスーツとかロングコートとか、そういう衣装をイメージしていたんです。でも、ブラジルに着いて衣装合わせをしたら、Tシャツとか短パンとかがたくさん用意されていて(笑)。それで、ブラジルでいま一番勢いがあるデザイナー、ヘルコビッチ アレキサンドレのところへ行って、そのお店で何点か選びました。タトゥーに関しては、本編にも出てくるジュンという役柄を演じた方が彫師なんです。それで、彼と話して、首筋に入る蛇のタトゥーをデザインしてもらいました。ジュンさんがまずタトゥーを描いて、その後のつながりのためにシールを作る。ただ、日本ならそこにエアブラシを当てて、シールを剥がせばできあがるんですが、ブラジルのメイクさんはいきなりシールの上からボールペンで塗りつぶしはじめるですね(笑)。それがけっこう痛いんです。しかも、リアルに皮膚が傷ついて、そこにインクが入ったら、本当のタトゥーじゃないですか。だから、ボールペンはちょっと困ると言ったら、次にサインペンが出てきて(笑)。結局、日本からボディペインティングの黒を取り寄せたんですが、ブラジルは凄いなと思いましたよ。
これまでの役柄と一番違った点というと、どんなところでしょうか?
一番大きかったのは、日本語をしゃべらない点でしょうね。ポルトガル語で芝居をするのは、やはり不安も大きかったですし、ニュアンスに関しても、日本では成立してもブラジルでは成立しないものがある。その点に気を配ったというのが、いままでと大きく違うところですね。ポルトガル語で芝居をするため、現地ではアクティング・トレーナーに付いて練習をして、そこからかなり吸収することができたと思います。ただ、現地には日本語をしゃべれる人が誰もいなかったんですね。実は通訳さんも日本語があまり達者な方ではなく、日本語がしゃべれるということでプロダクションが雇ったドライバーさんも、まったくしゃべれない(笑)。だから、ユー・リクウァイ監督とは、お互いに拙くてもいいから英語で話そうと言って、通訳を介さずにニュアンスなどの確認をするようにしていました。あらかじめ考えていたより、ずっと大変な撮影になりましたね(笑)。
撮影を通じて、もっともよかった点というと?
ブラジルでの生活でしょうね。3ヵ月も滞在するなんて、旅行では経験できないことじゃないですか。約3ヵ月、毎日ブラジル人と顔を合わせて、ブラジルのご飯を食べていると、だんだんブラジル化してくるんです。僕はO型なんですが、どうやらO型はブラジルとの適性があるみたいなんですね。適当で、気分屋で、ちゃらんぽらん。それがブラジル人そのものなんです(笑)。撮影も、まわりのみんながそんな感じだから、すごく楽なんですよ。ある日、入りの時間になってもドライバーさんが迎えに来ないことがあったんです。それで電話をしたら、家は出たけど、途中で強盗に会ったと言うんですね(笑)。どこまで本当なのか分からないけど、ブラジルという国に対するフィット感はすごくありました。行けるのなら、いまでもまたブラジルに行きたいくらいです。
ユー・リクウァイ監督との仕事はどうでしたか?
カメラマン出身ということもあって、画へのこだわりがとても強い方でした。例えば、このシーンではどんなことがやりたいのか聞くと、「鈴木清順監督みたいに、刺青にポタッと雪が落ちて溶ける、そういうことがやりたいんだ」と言うんです。とても感覚的な人ですよね。カメラマンや照明の方との作業も含め、現場にいる時点から画がよくなることは、はっきりと分かっていました。それから、監督はとにかく打たれ強い方だったと思います。なにしろブラジルで撮影して、スタッフもみんなブラジル人だから、みんな言うことを聞かない(笑)。でも、監督はニコニコしているんです。僕がオールアップした後、監督はあまりの苦労から寝込んでしまったんですが、その中で1本撮り切った精神力は尊敬に値しますね。
共演したアンソニー・ウォンさんには、どんな印象を持ちましたか?
アンソニーさんは日本のことが好きだと言って、初日から日本語で話しかけてきてくれたんです。とてもいい関係性を築けたと思います。アンソニーさんが将棋を指したいと言うので、日本に電話して旅行用のポケット将棋を買ってきてもらって、それを教えたりとか。すごく気を使う方で、つねにまわりを飽きさせないような雰囲気作りをする方でした。いろいろな話をしてもらいましたよ、家族のこととか、子どものこととか。
ただ、一度大喧嘩をしたことがあったんです。アンソニーさんが現場でなにか名案を思い付いて、それでどう思う?と聞かれたんですね。でも、僕はそういうことは監督が決めることだと思っているので、監督に決めてもらえばいいと言うと、なんでお前はそんなに非協力的なんだ!と喧嘩になって(笑)。でも、2、3日後、アンソニーさんのほうから、この間は変な空気になってゴメンなって声を掛けてくれて、それでまた仲良くなりました。おそらくアンソニーさんは、みんなで協力しながら、現場で作り上げていくタイプなんでしょうね。そういう意味では、僕と全然違うタイプの役者だったと思います。
一度、休みの日にサッカーに誘ったことがあったんですよ。現地のサッカー・チームと試合をすることがあって。でも、アンソニーさんは「俺はけっこうやるよ」とか話していながら、やってみたらまったくできなくて、落ち込んで帰ってしまいましたね(笑)。来週もサッカーするから行こうよって誘ったら、俺は一生行かないって言ってました(笑)。
ホァン・イーさんはどんな方でしたか?
気のいいお姉さんという感じでした。ホァン・イーさんは北京オリンピックのキャンペーン・モデルのひとりだったんですね。それで、北京オリンピックの競技場“鳥の巣”の5キロくらいある模型を、ブラジルでプレゼントしてもらって。やさしい気持ちは痛いほどよく分かったんですが……(笑)。ホァン・イーさんは撮影が2週間くらい空くこともあったので、暇だろうなと思って、ご飯に行く時はなるべく誘うようにしましたね。ホァン・イーさんとメイクさんと一緒に、よくお酒を飲んだりしました。
ブラジルでの生活が印象的だったということですが、特に思い出に残っていることと言えば何でしょうか?
なにより食事がおいしいんです。日本人に案外合うと思いましたね。特に、野菜や果物がすごくおいしいんです。日本食を食べられるお店もかなりあるんですが、いっさい食べませんでしたから。主食がお米だからだと思うんですが、日本食が恋しいとは全然感じませんでした。
滞在していたのは、どのようなところですか?
ビジネス街にある4つ星くらいのホテルで、いいホテルでしたよ。外にプールもあって、そこではほぼ毎日アンソニーさんが日焼けをしている姿を見ました(笑)。
単身での海外撮影ということで、身のまわりのことも大変だったのでは?
撮影がはじまって1ヵ月くらい過ぎた時に、このままじゃダメだと思って、現地の日本人の方に通訳兼コーディネーターとして加わってもらったんです。その人に毎晩食事に連れて行ってもらいました。日本で言う定食屋さんみたいな、現地の人しか入らないようなところを毎日まわって。ブラジルというとシュラスコをイメージする人も多いと思うんですが、あれは現地では高価なんです。僕はほとんど安い定食屋で食べていましたね。休みの日にはいろいろ歩きまわったり、すごく楽しみました。
ブラジルでの撮影は、どのように進められたのでしょうか?
たぶん照明も香港から持ち込んでいたので、香港のスタイルで撮影していたのだと思いますが、とにかくスピーディーなんです。待ち時間もあまりなく、それでこの完成度かと思いました。日本の撮影だと、1カット終わったら1時間かけて照明を直すというのが普通なんですが、今回の待ち時間は毎回5分程度でしたから。
撮影に加わったブラジル人スタッフの良さは、どんなところでしたか?
やはり一緒にやっていて楽だということですね。ピリピリした感じが現場にないんです。それは悪い点でもあるんですが、ただ楽は楽ですよね。その辺に座って、働いていなかったりする(笑)。そういう意味では、すごく力の抜けた現場ではありました。
小アマゾンでの撮影は、かなり危険な撮影だったように思えますが、いかがでしたか?
あそこはサンパウロから車で3時間くらいの場所にある、ちょっとしたアマゾンなんです。虫とかに刺されたら、そうとう危険な場所ですよね。でも、実はオールアップの日に、僕も刺されたんです。本番中、手にチクッという感触があって、ただ本番中なのではたくわけにもいかず、そのまま手に力を入れて虫が逃げられないようにして芝居を続けていたら、やっぱり刺されていて。3日くらいしたら、そこが腫れはじめたんですね。日本に帰ってきてもまだ腫れが残っていたので、卵を産みつけられていたら怖いから、そこを食いちぎったんです(笑)。いまでもお酒を飲むと、そこがブラジルの記憶として赤く浮き上がるんです。あと、水は怖かったですよね。どんな菌が泳いでいるか分からないところですし、衣装はTシャツに短パンですから。そういう点では、本当に怖い思いをしました。
舞台となったサンパウロ市のリベルダーデ(=日系移民が最も多く住んでいる街)は、どんなところでしたか?
昔は日本人街だったんですが、いまは完全に中国人街ですね。でも、昔ながらの鳥居があったり、提灯が飾られていたりして、日本の名残りもあるんです。懐かしい感じがしました。いまの日本からは消えた日本人が、まだいるような気がして。ブラジルへ行く前に見たドキュメンタリーの中では、いまだに天皇誕生日に小学校で全校集会を開いて、みんなで歌を歌うんです。そういうことって、もう日本ではないですからね。でも、ブラジルには残っている。消え去った日本の魂が、ブラジルで生き残っているんだと思いました。
ブラジルでの撮影を通じて、得たものは何だと思いますか?
今回の撮影は、ある意味極限状況だったと思うんです。日本から30時間かけて行って、もちろん時差も真反対だし、言葉もまったく分からない。これ以上厳しい場所は、もうないと思うんですよ。だから、この撮影に耐えられたのなら、今後はどこの国に行って撮影をしても、耐えられるんじゃないかと思いますね。日本で撮影をして、ちょっとしたことで文句を言うとか、もうないと思います(笑)。押し巻きがどうとか、たぶん一生言わないと思いますよ(笑)。
これから海外へ行って、新しい経験をしてみようと思っている人たちに、何かアドバイスをするとしたら?
結局、行ってしまえばどうにかなるんですよね。ただ、行く前にあまり簡単に考えすぎていると、行ってから痛い目に会う。常識の範囲内で下調べをして、常識の範囲内で行動する分には、何をやってもいいと思います。
ちなみに、オダギリさんがアメリカの大学に入学した時は、どうだったんですか?
僕は1年間大阪で準備をしてから行きました。ただ、僕の大きな失敗は、住むところを決めていなかったことなんです。アメリカに着いた初日、しょうがないから大学へ行ったら休日で、スーツケースを持って校内をうろついているところを、警察につかまったんです(笑)。それで、行くあてもなくさまよっているという話をしたところ、見かねてカウンセラーを呼んでくれて、その人の家に滞在している間に寮の契約をしたんです。でも、寮に入ったら、ルームメートが数日前に僕をつかまえた警察の人で(笑)。奇跡だと思いましたけど、散々な思いをしましたね。
海外作品への出演をいくつか終え、いまキャリア全体を振り返って、何を思いますか?
強く思うのは、役者としては、みんなの邪魔にならない程度に存在していればいいのかなということです(笑)。年齢的には、もう中堅の位置じゃないですか。若手も大勢がんばっているし、先輩は先輩で大御所の方がたくさんいるから、そのどちらにも邪魔にならないように(笑)、のほほんとやっていきたいと思っています。
役者の仕事以外にやりたいと思っていることもたくさんあるので、役者として残っていかなければいけないという思いも別にないんですよ。他にやりたいことがあって、そっちに集中できるのなら、そっちで答えを出すべきなんじゃないかなと思って。人生は短いですからね。役者としてデビューしてから8年になるので、昔みたいに勢いで走っていく必要性はあまり感じていません。理想的なのは、小林 薫さんです。あと、奥田瑛二さん。奥田さんなんて監督業にシフトしてしまっているところもありますけど、好きなことをやりながら、役者としての意識も忘れていない。ああいった方々を見ると、理想的なカッコいいおじさん像だなと思いますよね。
僕は控え目でいたいんです。もちろん質は落としたくない。自分が参加する作品に関しては、ちゃんと答えを残していきたいと思います。でも、いままでみたいに、そんなに数を重ねても仕方ないなという思いはしているんです。もともと控え目な人間なので、自分らしくやっていければいいと思っているんですけどね(笑)。
役者の仕事以外に、プライベートでやりたいと考えていることというのは、何ですか?
農作業です。中国で撮影をしていた時に、人間に必要なものが見えたというか、いまの日本の生き方はあまりに人間らしくないなと思って、ちょっと嫌になったんですね。もっと人間らしい生き方をしなければと思って。もともと、仕事よりも人生のほうに興味があるんです。仕事は人生のひとつのピースにすぎませんから。いまはプライベートのビジョンのほうが大事ですね。
オダギリさんから見て、いまの日本映画の状況はどのように見えますか?
1年間海外へ行っていたこともあって、すごく疎いんですよね。冷静にはあまり見られないんですが、ただ日本映画には絶対的にいいものであってほしいんです。だから、いい作品があるのなら、もちろんできるだけのことはやりたいですよね。役者として、いい作品しかやりたくないという気持ちはあります。
公開表記
監督:ユー・リクウァイ
出演:オダギリ ジョー、アンソニー・ウォン、チェン・チャオロン、ホァン・イー、タイナ・ミュレールほか
(オフィシャル素材提供)