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ドキュメンタリー『NO ハンブルク NO ビートルズ』予告編&推薦コメント解禁!

©2024 A BI Hamburg Production Ltd

ジョン・レノンが「僕らはリヴァプールで生まれ、ハンブルクで育った」と語るハンブルク時代を、元メンバー&関係者らが証言

 誰もが知る伝説のロックバンド、ザ・ビートルズ。ビートルズがリヴァプール出身なのは周知の事実だが、生前ジョン・レノンは、「僕らはリヴァプールで生まれ、ハンブルクで育った」と語っていた。本作は、1960年のハンブルク初訪問の経緯から、1963年の「プリーズ・プリーズ・ミー」のヒットを経て、1966年の6回目の訪問までを、元メンバーと関係者の証言やアーカイブ映像と音声、アニメーションなどを使って、まるで昨日のことかのように生き生きと蘇らせる。

 ポール・マッカートニーは、「手錠で繋がれ、囚人のように飛行機に乗せられた」という、強制送還となった事件の経緯を説明。脱退したスチュアート・サトクリフと付き合ったアストリッド・キルヒヘアは、初めてビートルズの演奏を見た経緯から、スチュアートが亡くなったのを知った際のジョン、ポール、ピート・ベストの三者三様のリアクションを詳細に語る。リトル・リチャードは、「ジョン・レノンのような人には会ったことがない」という楽屋でのエピソードを披露。ビートルズのレコード・プロデューサーだったジョージ・マーティンは、ピート・ベストをリンゴ・スターに替えた理由を告白し、リヴァプールの「キャヴァーン」でのライブまでピートが外されたと知らなかった当時からのファンは、「ピート、フォーエバー。リンゴ、ネバー」と叫んだという当時の様子を回想する。

 後のインタビューでジョンは「ハンブルクではステージで寝たり、食べたり、悪態をついたりして、全くの“自然体”だった」と話すが、その後、「キャヴァーン」でのファンクラブ・ナイトに参加したファンは、「ビートルズは全身レザーで登場したが、ワン・セットが終わったら、スーツに着替え、その後レザー姿は見なくなった」と転換期を目の前で目撃。

 およそ6年に渡るビートルズの初期を、時系列で追体験するドキュメンタリーが、2024年、約60年の時を経て、完成した。

 『ジョン・レノン 音楽で世界を変えた男の真実』のロジャー・アプルトン監督の最新作が世界初公開。

 この度、12月6日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、池袋シネマ・ロサ、アップリンク吉祥寺、MOVIX昭島ほか全国順次公開されるのを前に、予告編及び推薦コメントが届いた。

コメント

ダイアモンド☆ユカイ(ロックシンガー/俳優)
 ハンブルグ時代のビートルズの映像は誰も見たことがない。
 当時ライブを見た人には、記憶の中にしか残っていない貴重な時代。残っているスタークラブのライブの音源と革ジャン&リーゼントの野性的な若きビートルズを撮ったユルゲン・フォルマーやアストリッド・キルヒヘルの写真から丁寧にビートルズの歴史をひもとくこの映画から、まだ無名の若きビートルズのエネルギーがどんなだったかを俺たちビートルズ・ファンは想像するだけでワクワクしてしまう。
 まさに、これこそ、日本の歴史、本能寺の変のように永遠の歴史ロマンだね。

杉 真理(シンガーソングライター)
 運命の糸の中継地であったハンブルグ、その経験が演奏力に繋がったのは知っていましたが、それにも増して後にビートルズが見せるあの結束力は、壮絶なハンブルグ体験があったからこそだと、確信しました。
 無防備な若造があんな危険地帯に放り込まれたら仲間と一心同体になるしか無いし。
 そしてやっぱり若造のビートルズもカッコいい!

川原伸司(レコード・プロデューサー、作曲家)
 ビートルズ史で語られるハンブルグのイメージは猥雑で混沌としていて、あくまで個人的印象だが60年代の新宿歌舞伎町に港町本牧が隣り合わせたようなイメージで捉えてしまう。しかしドイツ本国ではハンブルグは昔から放送、新聞を始めとしたメディアの中心地であり、多くのコンサートホールや美術館を有する芸術的文化都市としての側面が大きい。日本と同じ第二次世界大戦の敗戦国であるドイツのヨーロッパでは最大の港町であり、戦後間もない時期に反ファシズムから、実存主義者の若者達が引き寄せられるようにこの街に集まり、戦後の自由都市ハンブルグを築き上げる礎を築いたのである。ビートルズの四人もその空気を浴びることによって「自由」とは“好き勝手に生きる”ことではなく、“なりたい自分になり、言動、行動の責任を自分で取る”という、自由な生き方の本質をこの街から学んだのだろう。本能的で粗野だったロックン・ロールを、大衆芸術にまで高めた彼らの音楽的理想の原点がここにはある。

ストーリー

 1960年。若者に何か新しいものを提供したいと思っていたドイツ・ハンブルクのクラブ・オーナーたちは、水夫からイギリスではアメリカン・スタイルのロックンロールが演奏されていると聞き、アメリカより安く来られるイギリスからアーティストを招く。8月15日、ビートルズは、列車代や船代も出せず、ミニバスでハンブルクを初訪問。クラブで演奏するかと思いきや、ストリップ・クラブ「インドラ」で演奏することに。隣の映画館でベッドも照明も暖房もないところにユニオンジャックの旗を被って寝て過ごす。全員10代で、最年少のジョージ・ハリスンはわずか17歳で、世界最大の赤線地区の真ん中で演奏し、寝泊まりすることになる。ステージでは、人を引き付けるコツを徐々に学び、スタイルが確立。まさに、ハンブルクは学び場となった。
 「インドラ」で最初は無名だったが、1〜2週間後には混み合い、6週間後には近所からの苦情で、ライブ演奏が禁止に。やっと「カイザーケラー」で演奏できることになる。その後、トニー・シェリダン付きのバンドとして「トップテン」で演奏したいと申し出ると、「カイザーケラー」のマネージャーのコシュミーダーに「そうしたらドイツでは二度と働けなくしてやる」と脅される。メンバーは「あんたもね」と返すが、「トップテン」で演奏した初日にコシュミーダーは実際に警察にタレこみ、ポールとピートは起訴され、イギリスに強制送還される。
 1962年4月、ハンブルクの「スター・クラブ」のオープニングに呼ばれたビートルズだが、初めて飛行機に乗ってハンブルクに行くと、空港で待っていたのは、スチュアート・サトクリフの恋人・アストリッドのみだった。元メンバーの死を知るメンバーたち。8月には、ドラマーのピート・ベストが外され、リンゴ・スターに替わる。11月と12月にハンブルクを再訪し、大晦日を最後に「スター・クラブ」での公演を終えると、11日後に発売された「プリーズ・プリーズ・ミー」がイギリスで大ヒット。当時を知る者は口を揃えて言う。「ビートルズを作ったのはリヴァプールではない」と。

 (原題:No Hamburg No Beatles、2024年、イギリス、上映時間:57分)

キャスト&スタッフ

 監督:ロジャー・アプルトン
 出演:ピート・ベスト、アラン・ウィリアムズ(アーカイブ映像)ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、スチュアート・サトクリフ、ジョージ・マーティン、アストリッド・キルヒヘア、リトル・リチャード
 字幕監修:藤本国彦

オフィシャル・サイト(外部サイト)

Xserverビジネス サーバー初期ページ

 公式X:https://X.com/beatlesfilm (外部サイト)

公開表記

 配給:NEGA
 12月6日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、池袋シネマ・ロサ、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開

(オフィシャル素材提供)

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